out of control  

  


   24

 朱に染まった砂浜が続いていた。
 離れた岩場にぶつかった波が砕ける色も赤い。
 ここは……フェニキスだな。そうか、夢か。
 妙なもんだ。自覚して夢を見るってのは。
 水平線に沈む太陽に目を細めて、俺はぼんやりと立ったままの背中に声を掛けた。

『おい、ネサラ』

 まだ暑いってのに、きっちりと黒衣を着込んだ背中は動かない。

『いつまで拗ねてる気だよ、あぁ?』

 少し前まではこう言うとむきになって言い返してきたもんだが、もうそんな素振りもねえ。
 ただ波打ち際に突っ立って、潮風に煽られる髪を押さえていた。
 ……しょうがねえな。ったく、今日はなんの理由で拗ねたんだか。
 どうせまたヤナフ辺りがからかったんだろうが、こういうところがいちいち可愛いぜ。
 そう思ってそばに行くと、ネサラはぷいとそっぽを向いたが肩を抱く俺の腕からは逃げなかった。
 このころのことは覚えてる。
 鴉王になって、五年か……その辺りのころだ。
 鷹の民だったら、やっと戦士の見習いをやるような時期か。
 細い肩だが、こいつはもう王だ。鴉の中ではもう最強だった。戦うことに関しちゃ鴉よりも鷹だが、鷹の戦士でもそうそうこいつと張り合えるようなヤツはいねえだろう。

『またいつでも来い。ったく、おまえは会合かリュシオンが呼びでもしねえ限り寄り付きもしねえんだから。今度はゆっくり泊まって行けよ」
『もう来ない』
『なんだって?』
『……あんたの顔を見たくないんでね』

 これも覚えている。そう呟いたネサラはするりと俺の腕をすり抜けて、夕暮れに染まる空に飛んで行っちまうんだ。
 これから帰るころには真っ暗になるだろう。慌てて引き止めたが、あいつは頑固で聞かなかったっけな。

『ティバーン? 離せよ』
『離さねえよ』

 王位に就いたなら、もうガキじゃない。だから俺もまだ強引に出られなくて、仕方なしに見送った。
 だが、今はあの時とは違う。強引に腕を掴んで引き止めると、俺は戸惑ってやっと顔を上げたネサラの頬にそっと触れた。
 今より幼いネサラがとっさに表情を取り繕えずに、俺を見上げる。チクショウ、本当にガキじゃねえか…!

『ティバーン……?』
『もう離さねえ』

 無防備に見開かれた目に、自嘲的に笑う俺が映っている。
 あの時、こんな顔をしてたのか? おまえ……。
 いや、わからねえ。これは俺の作ったまやかしだ。
 わかっていても、我慢できずに俺はネサラを抱きしめた。
 抱き潰しても構わねえ。あんな…ニンゲンどもに苦しめられるぐらいならいっそこの俺が…! それぐらいの気持ちで。
 あの時はなにもできずに俺はネサラを見送った。そしてそれから一月もしねえうちに、キルヴァスの見境のねえ海賊行為が始まったんだ。
 あのころの俺は、それを知ってただ腹を立てた。深い理由なんざ考えもしなかったさ。ただ、キルヴァスが貧しいからだと、鴉どもが意地を張ってるだけだと……なんて、莫迦だったんだろうな。

『ネサラ、もういい。もういいから、俺を頼れ』
『あんた、なにを言って……』
『ネサラ……』

 切れ長の目に夕暮れの赤い光が揺れる。ガキでもやっぱり王だな。崩れて泣いたりはしねえ。俺の言葉の奥にあるものを探ろうとするような視線が痛かった。
 ―――このまま、抱いていたい。抱いていればよかった。
 そんな風に思うようになったのは最近なのに、俺は勝手だな。
 しなるほど細い腰を抱きしめて、後頭部を掴み、戸惑ったままのネサラの上に覆いかぶさる。
 これは夢だ。わかってる。
 だが、いくら夢でもこんなガキになにをしようってんだ、俺は……。
 そのためらいが影響したのか、口づける寸前に腕の中の身体がひとまわり大きくなった。

『あんたも俺を支配したいのか?』

 幼さを残していた声がいきなり低くなり、男のものに変わる。
 驚いて目を開くと、そこには大人になった今のネサラがいた。
 赤かったフェニキスの海岸が夜の部屋になる。

『ネサラ…?』

 まるで水が引くようにネサラの黒衣が消え、しなやかな白い躰が露になった。
 あの夜見た躰だ。女のように媚態を見せるわけじゃない。性の匂いも感じさせない潔癖な肌が、恐ろしいほどなまめかしく俺には見えた。

『ネサラ!!』

 どこか遠くを見つめたまま、ネサラの翼の動きがゆっくりと止まった。
 腕の中の躰が熱い。それなのに汗は冷たくて、俺はなす術もなく崩れ落ちたネサラを抱いて立ち尽くした。

「ネサラ…!」

 自分の声で目が覚めた。
 一瞬、夢か現実かの区別がつかねえ。
 乱れた自分の鼓動を聞きながら、俺はゆっくりと深呼吸を繰り返した。
 クソ、……うたたねしちまったんだな。
 ソファからゆっくりと身を起こし、鈍く痛むこめかみを押さえる。
 そんなに長く眠っていたわけじゃなさそうだ。カーテンを開けたままの外はまだ明るかった。
 ……いや、ちょっと暗いか? また雪になりそうだな。
 水を飲んでテラスに出ると、風に乗って弔いの鐘の音が響いてきた。
 ……この音は、子どもじゃないな。それだけは良かった。
 ったく、毎日ひっきりなしだ。教会はさぞ忙しいだろうよ。
 もちろん、夏や冬ってのはどこでも死人が増えるもんだが、ネヴァサじゃまだ飢え死にが少ないだけましかも知れねえな。
 手すりにもたれていた身体を起こして、俺は開けっ放しにしていた窓から部屋に戻った。
 さっきから部屋に入るか入るまいか、迷ってるらしい気配があったからだ。

「入れ」

 窓を閉めて声を掛けると、ためらいがちに扉が開く。誰かと思ったら、デインの巫女だ。

「失礼いたします」
「なにかあったか?」

 いつものように腕を組んで訊いたが、緊張した表情の巫女はいっそう固くなって俺の前に立ち、「いえ…」と小さく首を振った。

「昼食の席にいらっしゃらなかったものですから、まだお顔が痛むのかとリュシオンさんが心配なさっていました。あの、もし痛みが強いようでしたら柔らかいものを持ってきますから、なにか召し上がりませんか?」
「キルロイが杖を使ってくれたからな。怪我の方は心配ないし、朝飯は食ったぜ。一食や二食抜かしても死にはしねえよ。心配いらん。考えなきゃならねえことが多かったんでな」
「それは…そうかもしれませんが」

 それでもなにか言いたそうにしていた巫女は、言いかけた口を閉じ、所在無げに俯いた。
 ……なにか話があって来たようだな。

「座れ」

 先にソファに腰を下ろして促すと、弾かれたように顔を上げる。不安そうに向けられた視線に頷いてやると、巫女はやっとほっとした様子で浅くソファに腰掛けた。

「リュシオンは?」
「外にいらっしゃいますが、ハールさんもいっしょですから」
「そうか」

 ネサラを待ってるんだな。
 本当だったら探しに行きたいだろうに、あいつにしてはよく堪えてる。

「鳥翼王さま……教えてください」

 なにをだ? 問い返す代わりに視線を向けると、酷く緊張した表情のまま、巫女は俺を見つめ返して言った。

「あの日、なにがあったのですか?」
「…………」
「わたしたちが帰ってきた時、兵たちも、皆さんもまるで死んでしまったかのように眠っていました。どんなに声を掛けても起きられなくて、リュシオンさんが帰られて呪歌を謡われてやっと目覚められた。でも、しばらくはみんなまだ夢の中にいるような様子で……。鳥翼王さまのお部屋にいらっしゃってから、リュシオンさんまで様子がおかしくなってしまって……ただごととは思えません」

 俺の部屋でなにがあったかを教えるのは簡単だが、それは若い娘が聞くような内容じゃねえ。巫女は「親無し」で見かけどおりの年齢じゃないにしても、この様子じゃまだ純潔だろう。
 だったらなおさら言えやしねえ。

「最初に話した通りだ。俺に薬を盛ってネサラが姿を消した。あいつは正気じゃなかった。思えば、あの渓谷に行った時からおかしかったんだ。おそらく、今回の黒幕になにかされたんだろうよ。城にいた連中もな」
「ですが、鳥翼王さま…。あの日から、鳥翼王さまのお心が酷く固いのはどうしてですか?」
「俺の心?」
「はい。鳥翼王さまは鴉王さまのようにお心を閉ざすことはなさらなかった。私の力を知ってからでも、変わることなく……。いつでも暖かくて、強いお気持ちが伝わっていました。でも今は……」

 そこまで言って首を振ると、巫女は夜明けを迎えた空のような色の目でまっすぐ俺を見つめて続ける。

「それだけのことがあったのではありませんか? 心配なんです。デインを助けてくださるのはうれしい。でも、そのためにもし…もし……」

 それ以上言えずに俯いた細い肩が震えていた。
 そうか。……俺がなにも言わねえせいで悪い想像ばかりさせちまったんだな。
 大きく息をつくと、俺は立ち上がって巫女の隣に座り、自分こそ倒れそうな顔色で黙り込む巫女の肩に手を置いて言った。

「ネサラのことなら心配いらねえ。あいつは責任感が強い。引き受けた以上は中途半端な状態で投げ出すことは絶対にねえよ」
「鳥翼王さま……」
「もし帰らなくてもだ。あいつがどこにいようと、俺が連れ戻す。必ずな」

 それで少しは安心できたのか、巫女の表情が心なしか明るくなる。ようやく顔を上げた巫女にもう一度頷くと、俺はいつものように笑ってやりながら続けた。

「だからおまえは背筋を伸ばしてしゃきっとしていろ。ペレアスもおまえも感情を表に出しすぎる。王ってのは、たとえてめえのケツに火がついていようが平然と構えて見せなきゃならん仕事だ。デインを守るという気持ちに嘘がないなら、自分の仕事を全うするんだな」
「はい…。そうですね。本当に、そうです。申し訳ありません。今一番大変なのは鳥翼王さまなのに」
「気にすんな」

 さらさらと流れる銀髪の頭に手を置いて言ってやると、ようやく安心したように巫女が笑う。表向きだけでも納得したようだな。
 巫女はもう一度頭を下げて部屋を出て行った。
 自分で言っておいてなんだが、疲れたぜ。本当に王ってのは因果な商売だ。てめえのケツに火がついていても平然としてなきゃならん、か。まったくその通りだな。
 巫女を見送って近くに気配がないことを探り、あの日から苦い記憶がこびりついた寝台に腰掛けて、俺はようやく重いため息をついた。
 ……ネサラが出て行く直前のことは、はっきりと覚えてる。ネサラの謡った呪歌で意識を失う直前、あいつは淡々と語った。恐らくは、今まで一度も口にしなかっただろう本音の言葉を。
 頬に触れた手の冷たさも覚えてる。思えばずっとおかしかったんだ。あんなに寒いのに手が暖かくて……熱があるんだとばかり思っていたが、あの時にはもうおかしくなってたんだろうさ。
 だが、最後の最後で、正気に返っていた。
 立ち去り際に唇に残されたぬくもりが、いつまでも消えねえ。
 どこの誰がネサラにあんな真似をしやがったのかは知らねえが、悔しくて堪らなかった。もちろん、俺自身の不甲斐なさもな。
 ………痛かったろうな。どんなにか痛かっただろう。
 俺は処女の破瓜はしねえ主義だ。自分でも自分の一物がでかいのはわかってるし、こういうことは受け入れる側の方が覚悟がいる。その一番最初が痛いだけで終ったら可哀想だからな。もちろん、経験のねえ女に惚れちまったならしょうがねえ。手を出しちまうだろうが。
 でもそれはあくまでも本気で惚れた場合だ。ただ興味だけなら、絶対に避けるさ。いい加減な気持ちで褥を共にするなんざ、女が可哀想過ぎる。
 だが、ネサラは……。
 男だからじゃねえ。怖がってるからでもねえ。
 なにもかも奪いたい気持ちと同じだけ、優しくしたかった。
 体温を分け合うことは悪くないもんだと、想いのある相手となら気持ちよくなれたりもすることを教えたかった。
 それがまさか、あんな形になっちまうとは……。
 俺は、たった一度出しただけだ。それもぶり返した発情期の熱をぶつける形になった。馴染みの女にさえしたことがねえような身勝手なことをしちまって、それも信じられなかった。
 それに、発情期の熱があの一度で収まったことにも驚いた。いや、収まって良かったんだがな。いつもなら一度で相手を離すってことはまずない。
 それでもあくる日の惨状は、思い出しただけでも気が滅入るぜ。
 遠くからリュシオンの歌声が聴こえて、最初は夢でも見てるんだろうと思った。だが、目が覚めた時に蒼白なリュシオンが目の前にいて……起き上がって、しばらくはなにがあったのか思い出せなかったほどだ。
 開けっ放しの窓からは雪が舞い込み、寝台の上は……相当暴れただろうネサラの羽と、俺の羽と……おびただしいと言ってもいいほどの血痕が残っていた。
 ネサラが歩いた後だろう。絨毯のところどころにも点々と血が落ちていた。
 なにがあったのか、素っ裸で転がっていた俺を見れば一目瞭然だ。俺の身体にもかなりの血の跡が残ってたからな。
 俺の身体とこの部屋に残る、ネサラの病人のような汗と血の匂いを嗅いだリュシオンの心境は察するに余りある。
 しばらくは信じられないものを見たように弱々しく、何度も首を横に振っていたリュシオンは、ただ一言「どうして…?」と訊いただけだったが、俺は返事もできなかった。
 いっそ、詰られた方がまだましだ。
 その点で言えばスクリミルはわかりやすくて良かったぜ。
 部屋を片付けなきゃならねえんだが、どうにも動く気になれなくてな。リュシオンに答えることもできずに呆然と寝台に座り込んだままいたら、リュシオンの呪歌で飛び起きたスクリミルが俺に挨拶に来て、部屋の惨状を見て固まってだな、なにがあったか察するが早いか、「この痴れ者がぁッ!!」と殴りかかってきやがったからな。
 避けようと思えば避けられたんだが、俺は敢えて避けなかった。さすがに現獅子王の拳だ。見事に吹っ飛ばされたぜ。折れたら困るから歯だけは食いしばったけどよ。

『見損なったぞ、貴様ッ!! 恥を知れ!!』
『スクリミル! スクリミル、やめろッ!!』
『なんの騒ぎだ!?』
『ひええッ! ちょ、なにがあったんすかあ!?』

 激怒したスクリミルを止めたのはライと、騒ぎを聞きつけて飛び込んできたアイク、それからガトリーだ。
 シノンもいっしょに入ってきたんだが、あいつはあいつで思うところがあったんだろう。部屋を一瞥したあとは氷のような視線で俺を見て、それでも寝台と部屋の後始末をしてくれた。
 俺にできる言い訳はねえ。ただリュシオンが誤解だと言って回って、どうにかスクリミルは落ち着いた。
 今は俺も反省してる。どんな形であれ、ネサラに乱暴しちまったってことじゃねえぞ。そこは反省して当然だ。
 そうじゃなくて、俺が先に動かなかったことでこの事実を他人に知られちまったってことだ。
 あいつのことだから、きっと気にする。そこは本当にしくじった。
 ………情けねえな。とっさの場面で一番にしなきゃいけねえことを見誤った。
 正直、地の底まで落ち込んだ気分だった。寝台にもぐりこんだまま、当分起き上がりたくねえぐらいにはな。
 俺はガキのころから力自慢でよ。初飛行こそ屋根から転がり落ちて腕を折るっつー情けねえもんだったが、一人前に飛べるようになってからは腕力でも風を使う技術でも同じ年頃の連中じゃ誰も俺に敵わなくて、調子に乗っていたころがあった。
 そんな俺の鼻っ柱をへし折ってくれたのが、ヤナフだ。今でこそ同い年って言ってもいいぐらいだが、ヤナフは俺より五つ上でよ、先に兵役についていて、でもそのころにはもう俺の方がでかくてな。
 調子に乗ってたんだよな。俺に飛ぶことを教えたヤナフにだって負けねえつもりだった。
 だが、生意気な口を叩く俺ににこりともしねえで「飛んでみろ」と言ったヤナフについて飛んで、あれだけ得意だと思っていた空中戦でコテンパンにされた。
 身体のでかさや腕力は確かに武器になる。だが、それだけじゃ勝てねえんだ。
 そんな当たり前のことを、俺はあの時教えられた。
 近所の奴等にもそそのかされてよ、将来は誰も敵わねえでっかい鷹王に「なりたい」じゃなくて、「なるに決まってる」なんて思っていた自分が情けなくて、格好悪くて……生まれて初めて、布団被って一生出たくねえって気持ちを味わった。
 まあ、次の朝には「うっとうしい! 負けて泣くなら勝つまで帰って来るんじゃないよ!」なんてお袋に引きずり出されたけどな。
 ヤナフももう、俺と二度と口を利いてくれないんじゃねえかと思ったっけ。心配そうについてくるウルキに八つ当たりしながら、でも調子こいたのは俺だし、我ながら情けなくでかい躰を縮めて謝りに行くと、ヤナフはもう怒ってなかった。
 いつもみたいに明るく笑って、「上には上がいるんだぜ、わかったか? でかいヒヨッコめ!」なんて言ってくれたんだ。
 うれしかったさ。……俺が人前で大声で泣いたのはあれで最後だ。
 だからじゃねえが、ヤナフとウルキに会いてえな。会って、叱り飛ばされてえ。
 …………考えるだけだ。自分の足で立てねえなら、王になんかなれねえ。なる資格はねえ。
 胸の中にたまったものを吐き出すように大きな息をついて、俺はなんとか立ち上がった。
 ネサラの行き先はわからねえ。ヤナフたちに連絡は取ったが、こっちにつくまでにまだ時間がかかるだろう。
 その間、ただ落ち込んでぐずぐずしてるだけなんざ、鷹王として情けねえにもほどがあるぜ。……って、今は鳥翼王だけどよ。
 勢いよく窓を開けてテラスに出ると、離れたところから賑やかな笑い声が聞こえてきた。トパックだ。スクリミルのことを気に入ったようで、ヨファやエディたちといっしょに遊んでもらってるらしい。

「よぉーし、じゃあ三回戦! 行くぞー!」
「来るが良い、小童! 俺の実力を見せてやろう!!」
「あはははッ、トパック、がんばれー!」

 張り切ったトパックにスクリミルが答え、ヨファが応援する。
 ……って、なにをやってるんだ? あれは?
 おいおい、まさかスクリミルとトパックが取っ組み合いをして遊ぼうってんじゃねえだろうな!?
 焦ってその騒動が見える位置まで飛ぶと、エディの「よーい、どん!」という掛け声を合図に長い紐……いや、長衣(ローブ)の絹帯だな。ひらひらとした長い絹帯を手に持ったトパックが猛然と中庭を走り出し、化身したスクリミルが吼えて後を追って走り出した。

「わああ、危ない、トパック! 右、右!!」
「うりゃあ!」
「ぎゃー、避けられた!!」

 おとなしいレオナルドまで白熱して応援する中、振り向き様猛然と追いかけてくるスクリミルに初級の炎魔法を放つトパックにも驚いたが、それをかわされて本気で悔しがるエディにはもっと驚いた。
 おい…獣牙族にとって炎魔法ってのは天敵なんだろう? しかもスクリミルは獅子王じゃねえかよ。いいのか!?
 ………いかん。あまりな光景につい俺までネサラのような心配をしちまった。
 よく見ると、中庭にはちらほらデインの黒い甲冑姿も見えた。衛兵も肝を潰してるのかと思ったが、意外に楽しそうだな。
 もちろんタマまで縮み上がったんじゃねえかってツラで物陰や渡り廊下にいる連中の方が多いんだが。

「絶対渡すかあ! そりゃッ!!」

 それにしても、本当にすばしっこいな。噴水の縁に足を掛けたトパックが猫のように宙を飛んで逃げたが、一瞬遅かった。
 見た目から猫には及ばないと思われがちだが、獅子の脚力は猫を軽く凌駕する。あれだけ重い身体をしていても、跳躍力は猫に負けねえからな。

「わあ!」
「トパック、危ない!!」

 空中でスクリミルが鋭い爪を絹帯に引っ掛け、大きくバランスを崩したトパックがまっさかさまに噴水の縁に頭をぶつけかけてヨファとエディの悲鳴が上がる。
 だが、化身を解きながら自らも噴水を飛び越えたスクリミルが器用に空中でトパックを抱えて、なにごともなかったかのように着地した。
 思わず腰を浮かしたデインの衛兵たちも揃って大きな息をつく。俺も同じような気持ちだ。

「わっはっは! これで俺の二勝だな! 俺の勝ちだ!!」
「ちぇーッ、あそこで炎魔法が決まってたら勝てたのにぃ!」
「あの小さな皇帝の炎魔法か、貴様ならばレクスフレイムだったか? あの程度でもなければ、小さな火球ごとき、たとえ正面から当たったところで怯みはせん! 俺の勝ちは変わらないというわけだな!」
「えー!? さすがにレクスフレイムなんてぶち当てたらおれの杖だと回復できなくてさあ、後でセネリオにどんな厭味言われるかわかんないじゃん!!」

 豪快に笑うスクリミルと、その太い肩に乗って膨れっ面になるトパックの図は一見平和そのものなんだが、話の内容は平和から程遠い。
 豪胆というかなんというか……物騒な遊び方をするもんだな、おい! ついでに言えば、トパックの放った小さな火球は、デイン城の灰色の壁に小さな焦げ痕を残していた。
 いや、ペレアスはあの通りの温厚な性格だし、巫女もそうだ。だから特になにもねえだろうけどよ、これがもしベグニオンの王宮なり大神殿だったら大事(おおごと)なんじゃねえのか…!?
 いかん。ネサラがここにいないせいかこいつらを見ていると、俺があいつの立場になって心配しちまうぜ。

「あ、鳥翼王だ! おーい!」
「え? ホントだ。ティバーン様ー!」

 思わずあんぐりと口を空けてそのやりとりを見下ろしていると、俺に気づいたトパックが手を振り、次いでヨファもぶんぶんと手を振ってきた。
 やれやれ、呼ばれちまったか。……しょうがねえな。
 うれしそうに寄って来たエディと遠慮がちなレオナルドもいる。二人のそばに下りながらそれぞれの頭を撫でて地面に立つと、リスのように自分の肩から降りるトパックに手を貸しながらスクリミルも俺に向き直った。

「なんだ、顔の腫れはもう引いたのだな」
「キルロイのおかげでな。まったく、でかい岩にぶん殴られたようだった。さすがは獅子王と言っておかなきゃならねえだろうな」
「ふん、心にもないことを。わざと避けなかっただけだろう。後から殴られたくなるようなことをしなければ良いだけの話ではないか」

 ……いや、まったくその通りなんだがな。
 ヨファとレオナルドが会話の内容に含まれた物騒な気配を察したらしい。落ち着きなく俺とスクリミルを見て、エディは少し考えるように小首を傾げて、トパックだけが大きな目を丸くして素っ頓狂な声で言いやがった。

「ええー? 鳥翼王、獅子王にぶん殴られたの!? すっげえ重量級の対戦じゃん! 見たかったー!!」
「おいッ、トパック! なんてこと言ってんだ、おまえはッ!!」

 ははは、ここまで言われたら清々しいな。
 そう思って俺もスクリミルも目を見交わして笑っちまったんだが、どこかの部屋のテラスで会話を聞いていたらしいサザの怒声が降って来た。

「え、だって…凄くねえ?」
「あはは、凄いと思う! 絶対、凄い!」
「なあ? うーん、でも、見てたら巻き込まれて大怪我しそう。まあ、おれはちゃんと逃げるけどね!」

 まったく懲りてねえトパックは隣にいたエディに話を振って、いつものように明るく笑ったエディが相槌を打つ。
 本当に、いつでもガキはこうでなくちゃなと思うヤツらだぜ。
 腹も立たん。

「なあ、ケンカしたのはわかったけど、もう仲直りした?」
「ん?」
「仲直り?」

 まあ多少たてがみが焦げたようだが、どっちにも怪我がなかったなら良かった。邪魔にならねぇうちに退散しようと思ったんだが、その前に俺たちの間に入って来たトパックが俺とスクリミルを交互に見上げながらそんなことを言うものだから、広げかけた翼をもう一度閉じる。

「うん! だって、鳥翼王と獅子王のケンカって、見応えはあるけどおっかないじゃん。ね、仲直りした? ホントは怒ってるのに『もういい』ってダメだぜ。後から絶対引きずるんだからさ、とことん言いたいことは言って、もう大丈夫になったら、それでホントの仲直りなんだからな!」

 ああ、……そういうことか。
 大人でも、子どもでも、本当はケンカをした後の仲直りってのは難しい。
 いつだって原因が単純な問題とは限らないからな。赦せない部分があったとして、それを認めて受け入れるってのが必要になる場合はどうしてもそうだろう。
 トパックの理屈はまだまだ幼く稚(いとけな)い。
 だが、その言葉から真心だとか、本当に俺たちのことを案じる気持ちだとかが伝わって、なんだか胸が温かくなっちまった。
 スクリミルも同じだったらしい。俺に向けていた視線にまだ含まれていた厳しいものがすっかり消え失せ、大らかな笑顔になってぐしゃぐしゃと自分と良く似た色の赤毛を撫でながら「大丈夫だ」と頷いた。
 もちろん、俺もだ。

「今回のことは俺が悪かったからな。スクリミルには殴られはしたが、感謝している。嘘じゃねえよ。だから心配いらない」

 ヨファとレオナルド、エディ、それから二階のテラスからサザも緊張して見守る中、しばらくなにかを探るように俺とスクリミルの顔を見比べていたトパックの顔に、ようやくいつもの快活な笑顔が戻る。

「そっか、ならいいや! 良かった! おれ、二人とも大好きだもん。ケンカされたら悲しいからさあ」
「そうかよ。そいつァありがとうよ」
「俺も貴様のことは好きだぞ。早く大きくなって共に酒を呑みたいものだ! …いや、ベオクだから寿命が短いのか? やっぱり俺はいつまでも待つから、なるべくゆっくりと大きくなるが良いぞ!」
「おれは早くでかくなりたいっつーの!」

 二人のやり取りにひとしきり笑った後、俺はスクリミルを囲むガキどもの頭を一度ずつ撫でて部屋に戻った。
 今は遊びに夢中で気がついていないようだが、あのぼろぼろにした絹帯の言い訳はどうするんだろうと少しばかり心配もしながら。

「…あの…」

 それでも、ガキどもが元気なのはいいことだ。こんな時だってのについ和んじまって口元を緩めて顎を撫でると、テラスに降りる前にまた遠慮がちな声を掛けられた。今度は空からだ。
 トパックの後を追う形で現れた鴉の女、ビーゼだった。

「ごめんなさい…首領、元気で」
「元気なのはいいことだろ。どうして謝る?」
「ええ、そうなんですけど……首領ってば空気を読まずに元気だから」

 言いにくそうに言ってそろりと降りてきたビーゼの申し訳なさそうな顔を見ていると、おかしいもんだ。本当に笑いたくなっちまった。
 そうか。確かビーゼも奴隷上がりだったな。だから他人の機嫌や周りの雰囲気に細やかに気を配れるんだろう。
 ……俺にはない部分だな。鴉らしくほっそりとしているが色っぽくて、戦士として戦うことのできる芯の強さやしなやかな翼が魅力的な良い女だ。いつもの俺だったらもう口説いてたろう。

「俺は気にしてねえよ。むしろ、あいつの元気な声を聞くと安心する」
「そ、そうですか? ええ、実は解放軍でもそうでした。首領は、みんなを元気にしてくれるんですよ」

 俺の返事にぱっと明るい表情になったビーゼがうれしそうにそばに下りた。本当に、いじらしいほどの喜びようだ。

「そうだろうな。……いい長だ。若いが、あいつはきっと大きな男になる」
「あー…背は、どうかしら? いえ、今でも小さすぎるってことはないと思うんですけど、まだまだ成長期ですし、もうちょっと大きくなれますよねッ」
「おいおい、そういう意味じゃねえよ」

 どうやら、本気だったらしいな。呆れて言うと、ビーゼはきょとんとした後でぱっと赤くなってぱたぱたと飛びながら言い訳した。

「あああ、はい、そ…そうですよね。あたし、ぼけてるっていつも言われてて…すみません。はい。あたしもそう信じてます」

 そう言ってはにかむと、色っぽい顔がまるで少女のようになる。
 ……いけねえな。鴉だからってついネサラの面影を探しちまって。男と女だし、生まれや育ちも違う。翼の色もだ。
 ネサラは蒼鴉で蒼い光沢があったが、ビーゼの翼は深い黒に紫がかった光沢がある。

「鳥翼王? あの…大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃねえように見えるか?」
「まさか、そんな失礼なこと! ……でも、元気ないです。ヤナフさんもウルキさんもすぐに向かうっておっしゃってたそうですし、もう少しで来られますよ。鴉王…さまも、きっとご無事ですから」

 そうだ。ビーゼはヤナフとウルキがこっちに向かうって鷹からの連絡を俺に知らせに来てくれた。
 だが、ネサラは無事じゃねえ。
 もちろん、ビーゼには言えねえことだから、「そうだな」と気のない返事をして、俺は鈍色の空に視線を戻した。

「はい。……じゃあ、あたしはこれで。失礼します」
「ああ」

 それで俺がこれ以上の会話を望んでねえのを察したんだろう。ビーゼは控えめに微笑んで飛んで行った。巫女の部屋の方だ。
 そういや、ミカヤとダチになったらしい。……いいことだぜ。
 ビーゼだけじゃねえ。トパックのところにいる鳥翼の民は、そのほとんどがセリノスへの移住を断った。これはトパックを慕っていることと、奴隷解放運動に本気で取り掛かる気持ち以上に、奴隷だったことのない仲間と暮らすことが難しいからだ。
 ノクス城にいた鴉の男はその典型だな。
 だが、このままじゃいけねえ。いつまでも「元奴隷の仲間」のままにしておくわけにはいかねえよ。このままじゃ鷹と鴉以上に、元奴隷だった民と俺たちはすれ違っちまうだろう。
 昔の過ちを繰り返さないためにも、いっしょに生きられる道を作らなきゃならねえんだ。
 どうすればあいつらが早く馴染めるか。居心地が良くなるのか。なによりも、心にも身体にも受けた深い傷を癒せるのか。
 ネサラは言っていた。癒すことが無理でも、その痛みを受け入れられるように、俺たちが理解してやれるようにならなきゃいけないと。
 命を捨ててでも、守りたい誇りがある。
 だが、誇りを捨ててでも生き抜くことはそれよりももっと難しい。
 それも一つの強さの形なんだと、教えてやらなけりゃいけねえ。

「……おまえが手伝うって自分から言ったんじゃねえかよ」

 こんな時なのに昔と同じように見せ付けられたネサラの背中を思い出しながら、俺は八つ当たりのようにぼやいて手すりにもたれかかった。
 だが、いつまでもこんなところで腐ってるわけにも行かねえしな。ネサラがいなくなってセネリオは「計画が狂いましたね」とぼやきながら、それでも出陣の準備をしてくれている。
 俺も手伝いたいのは山々だが、最初に申し出た時に邪魔だからいらんって言われちまってるからな。
 部屋に戻ってネサラの書き残した書類でも見るかと思ったんだが、今にも雪が降りそうな空を見上げて、俺は見回りの兵の少ない城壁に飛んだ。うっかりしてたぜ。そろそろリュシオンを休ませなきゃいけねえ。
 先に俺に気づいたハールが目礼する。リュシオンは振り返りもせず、ただ鈍色の空と眼下に広がる灰色の町を見渡していた。

「リュシオン」

 声を掛けても振り返りもしねえ。怒ってるからじゃねえ。俺の声も耳に入らねえほど、意識を遠くへ向けているからだ。
 魔力の高い者ならリュシオンが張り巡らせた鷺の魔力にも気がついただろう。その方面がさっぱりな俺にわかるのは、リュシオンの身体からいつもより強く金色の光が出ているからだった。

「リュシオン、そろそろ部屋に入れ」

 こいつの気持ちはわかるが、いつまでもこんなところに置いておけねえからな。華奢な肩に手を掛けて呼ぶと、ようやくリュシオンの視線が動き、のろのろと俺に向けられた。

「ティバーン……。どうしましたか? 私なら平気です」
「おまえが平気でも、おまえに付き合うハールは平気じゃねえだろうが。いいから部屋に入れ」

 とたんにリュシオンがむっとした顔をする。手に持っている毛織の大きなショールは、自分のためじゃねえ。帰ってきたネサラの肩にかけてやるためのものだ。
 そのショールを取り上げようと掴むと、リュシオンは絶対に離すまいと両手に力を込め、ショールを俺から奪い返しながら言った。

「べつにつきあってもらう必要はありません。私は好きでここにいるんですから。ネサラのことです。きっとろくに食事も摂らず、寒さに震えながら帰って来るかも知れない。それに帰ってきても私が待っていてやらないと、入りにくいかも知れないでしょう?」

 ハールには理由を言ってねえから、詳しい事情には触れねえリュシオンの気持ちが伝わってくる。
 こいつの気持ちはわかるさ。わかるが、かといって無理をさせて倒れられるのもな。

「ティバーン、私は倒れたりしません。そんなことになったらネサラが悲しい思いをする。こんなに心配させて……真っ先に文句を言いたいだけです」
「リュシオン、けどな」
「私はここを動きませんよ。もう二度とあいつを一人にしない。兄上やリアーネ、ニアルチの想いも受けて私はここにいるんですから」

 参った。こうなったらテコでも動きやがらねえ。
 どうしたもんかと思っていると天馬よりも重い風切りの音がして、今度は緑の騎竜に乗ったジルが城壁の上に顔を出した。

「あ…鳥翼王様、失礼いたします」
「いや。どうした?」
「そろそろ交代の時間ですから」

 交代? 不思議に思って尋ねようとしたところで、ハールが相棒の黒い竜の鼻面を撫でて伸びをする。
 ……そういうことか。面倒をかけちまってるな。

「じゃあリュシオン王子。一度失礼します」
「ああ。気にするな。本当に私なら一人でも充分なんだ」

 丁寧に挨拶したハールだが、相変わらず空を睨んだままのリュシオンに腹も立ててねえ様子でちらりと隻眼を俺に向けた。
 ……話があるってか。
 ハールに軽く首を叩かれた勇ましい黒い竜がのっそりと立ち上がり、数回羽ばたいて浮かび上がる。今のリュシオンは気にしねえだろうが、一応いつものように「無理はするなよ」とだけ声をかけて、俺はハールの後に続いて城壁を降り、険しい岩山がそびえる裏門のそばに降りた。
 こっちの少し先は断崖絶壁と、どこまでも続く岩山だけだ。人手のねえ今は見張りの兵の目も届いてねえ。

「わざわざこのような場所まで翼をお運びいただいて申し訳なく……」
「立てよ。心にもねえ口上はいらん」
「そうですか」

 騎竜から降りたハールが膝をついて言いかけた口上を止めると、あっさりと立ち上がる。
 眠そうな表情はいつもの通りだが、俺を見る隻眼には鋭いものが含まれていた。

「なにがあったんです?」

 質問は簡潔に、たった一言だ。
 どう答えようか迷って腕を組むと、この場の空気に緊張が走ったのを感じ取ったんだろう。心配そうに鼻面をよせてくる騎竜の首に片手を伸ばして続けた。

「リュシオン王子だけじゃない。皆の間に緊張がある。こんな時に鴉王が消えたのもおかしい。事情を伺ってもよろしいんじゃないかと思いますがね」
「……行き違いがあった。ネサラのことについては、俺の責任だ。それ以上のことは言えねえ」

 ネサラの身に起こったことを知らねえヤツにまで言う必要はない。そう考えて慎重に答えると、ハールはしばらく黙って騎竜の首を撫で、まだリュシオンが佇んでいるだろう城壁の方を見上げて言った。

「リュシオン王子もだ。頑なに黙っている。まるで、鴉王の身に起こったことを知られることが悪いようにね」
「そこまでわかっているなら、それ以上は訊くな。戦いに支障はねえ」
「鳥翼王。俺が心配しているのは戦いのことじゃない。鴉王が無事に帰って来るかどうかってことです」

 いつもの寝ぼけた口調じゃねえ。鋭い詰問調で問いかけてくるハールの隻眼を黙って見つめると、ハールは表情を変えねえまま俺に向ける視線をより厳しいものに変えた。

「質問を変えましょうか。あんた、鴉王に一体なにをしたんです?」
「それは、言えねえ」

 ある意味答えを教えちまってるような気がしたが、それでもこれだけは譲れねえ。そう思ってきっぱりと答えると、しばらくの沈黙の後でハールは頭を掻いて深い息をついた。

「ご自分の保身のため…ってわけじゃなさそうですね。まったく……」

 当然だ。俺自身の体面なんざ、どうだっていい。
 自分自身に恥じる行いをしたなら、全力でそれを受け止めて反省しなきゃ同じ事を繰り返しちまうだろ。
 そう思ってなにも言わずに組んでいた腕を下ろすと、まるでいくつも年長のような表情になったハールが騎竜の手綱を握り、身をかがめた騎竜の鞍にひらりと乗った。

「おい、どこへ行く?」
「話は終りました。……見回りに行ってきますよ。あんたは連絡待ちで動けん立場でしょう。ついでに鴉王が見つかれば、なんとか説得して連れ戻しましょう」
「ハール、しかし」

 ずっとリュシオンに付き合ってたんだ。疲れてるんじゃねえのか?
 そう思って止めようと思った俺に、隻眼に浮かぶ表情を柔らかなものに変えて答える。

「居眠りついでですからお気になさらず。では、失礼」

 止める隙もねえな。
 黒い騎竜が甘えた声で鳴き、重い羽ばたきを数回すると風の魔力が集まる。
 さすがはよく訓練されてるぜ。黒い騎竜は一度も姿勢を崩すことなく、主を乗せて鈍色の空に舞い上がって行った。
 それにしても……。
 参ったな。ハールにまで心配かけちまった。
 万が一、本当にネサラを見つけてくれたら礼を言うだけじゃ済まないぜ。
 俺も頭を掻いて裏門を見上げると、もう一度城壁の上に飛んだ。
 ただ連絡を待ってるだけってのは性に合わねえからな。本当だったら俺もヤナフたちを迎えに出たかったんだが、その前に俺を呼ぶアイクとライの声が聞こえたから一度部屋に戻ろうと思ったんだ。
 たまに顔を合わせる衛兵を怯えさせねえように意識して速度を落として戻ると、布巾をかけた盆を片手に持ったアイクと酒の瓶を抱えたライが俺の部屋の中に立っていた。

「あんたまでどこかに行ったのかと思ったぞ」
「そうですよ。心配しました」
「行かねえよ。そんな無責任な真似ができるか」

 肉の匂いだな。
 それも、俺の好みの血の滴るような焼き加減のものだ。

「腹は減ってないかも知れんが、これを」
「酒もありますよ!」
「……それは?」
「あんたが飯を食わないってミストとキルロイが酷く心配してる。それで二人がシノンにせがんで作らせたものだ。ミストは自分で作ろうとしていたが、やっぱりシノンの作った飯の方が美味いからな」
「酒は、飲みたい気分なんじゃないかな〜と思いましたんで。スクリミルがその…すみませんでした」

 見慣れた仏頂面で言ったアイクの横で俺を見上げたライは、そう言って抱えていた酒瓶を俺に差し出した。
 ……本当に、一食ぐらい抜いたところでどうってことはねえ。事実、サザとトパックを拾った時には飯を抜くだけじゃなくて一睡もしないままネヴァサに戻ったんだ。
 だが、アイクが取った布巾の下の肉を見ると、忘れていた空腹感が戻ってきた。
 あいつはなにか食ったのか、また飲まず食わずなんじゃねえのか……。
 気になったさ。気にはなったが、いざって時に俺の体力が万全じゃねえのは駄目だ。
 なにより、こういうのは思いやりだからな。ないがしろにしちゃいけねえ。

「二人ともありがとうよ。有難く貰おう。ただし、酒は遠慮する。……飲みたい気分ってのはそうなんだが、事が終ってからの方が美味そうだからな」
「そうですね。じゃあそれまで預かっててください。その時にはオレもお相伴しますよ。鴉王は酒はあまりお好きじゃないんでしょう? スクリミルだと自分で全部飲んじゃいますからね。ははは」
「ああ。頼むぜ」

 盆と酒を受け取って笑うと、アイクがさっさとソファに腰を下ろした。どうやら俺が食うまで出て行かねえつもりらしいな。
 恐らく、あの心配性の妹の差し金だろう。ライは俺とアイクを見比べたものの、アイクがテコでも動かねえ様子で腕を組んだのを見てため息をつき、隣に座る。
 おいおい、二人ともかよ。しょうがねえな。気を取り直してソファに座ると、俺は受け取った皿の肉に食いついた。ナイフもフォークもついてるが、もちろん手掴みだ。
 ここにはいねえのにな。行儀が悪いってネサラの怒声が聞こえたような気がする。
 スクリミルの方が俺よりももっと豪快な食い方をするんだが、そっちは無視して怒りやがるからな。
 塩も胡椒も焼き具合も、絶妙の加減だ。もしかしたら俺に食わせるためにこいつらが肉を我慢したんじゃねえかってぐらいの量もある。
 食いちぎった肉から溢れる新鮮な肉汁が口の中いっぱいに広がって、全然違うはずなのによ。ネサラの流した血の匂いを思い出して、胃の腑が震える。
 だが、ここで吐き出したりはできねえ。
 俺は鷹だ。もったいないからという以上に、これを食って、気合を入れなおすって決めたからな。
 気を遣ったライが置いた水を飲みながらしばらく黙って肉を食い、付け合わせの野菜と固いパンを無理やり流し込むと、それを見届けたアイクがごそごそと自分の懐を探して見つけた手巾を俺に投げた。

「なんだ?」
「使ってくれ。手が汚れただろう」
「おお、アイクが手巾の使い方を覚えた!」

 ライだけじゃねえ。手首に流れた分を舐めながら見ると、クソ真面目な顔で言われて正直、俺も驚いた。確かこいつも俺と似たようなことをやってたと思うんだがな。

「前に鴉王に言われた。それをシノンとティアマトに話したら怒られたんだ。当たり前だ、手巾ぐらい持ち歩けと。……べつに持ってなかったわけじゃないが、面倒で使わなかったんだ」
「あぁ、まあ俺も似たようなもんだな」
「面倒だからって…おまえホントにベオクかよ〜」

 そう言えば、そんなことがあったな。こいつも成長してるんだなあと思うと、ちょっとだけな。淋しいような気がする。
 昨日より今日、今日よりも明日。ベオクは瞬く間に成長して行くからな。

「ありがとうよ。借りるぜ」
「ああ」

 水を含ませて両手を綺麗に拭くと、アイクはしばらく黙ってそんな俺の手を見ていた。

「なんだ?」
「いや……」

 はっきりしねえな。汚れた手巾をどうするか迷ってる間にライが取り上げてたたみなおし、自分の懐に入れる。洗濯のことを考えるのはライって辺りが、二人の性格をよく表してるな。
 それからもう少し間を置いてようやく言った。海の深い部分のような青い目をまっすぐに俺に向けながら。

「大きな手だな」
「……俺の手か?」
「そうだ。あんたなら、俺のアロンダイトだけじゃなくてガトリーが使うような長槍だって軽々と振り回せるだろう」
「どうだかな。俺たちは武器は使わねえ」

 なにを言いたいのかわからなくて正直に答えると、アイクは「それはそうだ」と真面目に頷き、空になった皿を引き寄せてぽつりと言った。

「だが、俺たちと変わらない無骨な手だ。鴉王の手は、華奢だとは言わないが、それでも武人のものじゃなかった。いつもペンを持っていて、なにか書いて……ラグズの王としての強さは知っているが、かといって力仕事をするような者の手じゃない」
「そりゃそうだろ。あいつはなにより頭を使うのが仕事だぜ?」
「そうだ。だから、不思議に思っている。あんたは自分の力をよく知ってる。だからこそ、鴉王相手に無体なことはしないはずだ。リュシオンはあんたが鴉王にあんな真似をしたのは本意じゃなかったと言った。リュシオンが言うならそうなんだろう。だが、どうしてそんなことになったのかが俺にはわからない」
「お、おい、アイク…!」

 そういう話か。
 慌てたライが俺とアイクを見ておたつくが、アイクの視線は揺らがなかった。
 真剣な表情で問いかけてくるアイクが好奇心から訊いているわけじゃねえのはわかってる。だが、どう説明したものか俺は迷った。
 俺自身があの時のことをよく整理できてねえからだ。

「こういうことは訊くべきじゃないのかも知れないが、シノンが片付けていた寝台の状態を思い出すと、少なくとも合意でそうなったわけじゃないことぐらいは俺にもわかる。なにより俺たちが戻った時に、城は静まり返ってた。リュシオンが『再生の呪歌』を謡ってようやく皆が起きたようだが……一体、なにがあったんだ?」

 そのあたりについては落ち着いてからだが一度、説明した。
 ネサラの様子がおかしかったこと。俺に薬を盛ってあいつが姿を消したことについてはな。
 だが……。

「鳥翼王?」

 真摯なアイクの視線を受け止めて、俺はもう一度水を飲んだ。この話はまだしていない。
 リュシオンは城を覆った鷺の魔力に気がついていた。だからリュシオンにだけは話したが、本当は俺自身も納得していないことだからだ。

「俺を始め、城の連中を眠らせたのは、ネサラの謡った『呪歌』だ」

 低い声で言うと、アイクの目がゆっくりと丸くなり、ライは「嘘でしょう!?」と立ち上がった。信じられねえだろうな。
 ……俺自身もそうだ。

「嘘じゃねえ。俺があいつに薬を盛られたことは言ったな?」
「聞いた」
「それから身体の自由が利かなくなったのは事実だ。だが、一度その効果は切れたか、薄れたかした。その時点であいつを止めようと思ったんだが……経緯はどうあれ、俺はあいつに乱暴しちまった。あいつが出て行く直前も引き止めようとはしたんだが、……動けなかった」
「どうしてだ?」

 アイクと、座りなおしたライの表情に少し厳しいものが含まれる。俺が後悔したからだなんて言ったら、こいつにもぶっとばされるだろうな。
 だが、もちろん違う。

「わからん。今思い返せば、薬よりもなにか魔力のようなものに動きを抑えられたような気がする。身支度を整えている時、あいつは苦しそうな様子だった。怪我のせいもあるかも知れねえが、それとはまた違う様子で苦しんでいて、そばにいってやりたかったんだが……」

 あの泣き出しそうなネサラの表情を思い出してもう一度深い息をついて、俺はまるで自分が出て行ったことを知らしめるように、開かれたままになっていた窓を見て付け足した。

「その前に、ネサラが謡いだした。あいつが化身する時の光は蒼だが…あの時は金色の光を帯びていた。確かにあれは呪歌だ。間違いねえ」
「確かに皆が眠らされていたんだから、それはそうなんだろうが……」
「信じられません。だって、鴉王は『鴉』でしょう? そりゃ、蒼鴉が鷺の血を強く引いてるってのは知ってますよ。それにしても……」

 二人ともにわかには信じられねえように首を振る。そりゃそうだろうな。
 俺でさえまだ夢だったんじゃねえのかと思っているんだからよ。

「鷺の血を引いてるのか。だから呪歌を謡えたのか?」
「いや、それはない。オレだっておまえに比べたらちょっと長生きしてるけど、呪歌を謡う鴉がいるなんて聞いたことがないぞ。鳥翼王、そうですよね?」
「ああ。……それはねえ。鷺の血を引いても呪歌が謡えるかどうかってのは別でな。身体は確かに鴉だ。蒼鴉は少なくねえが、今まで呪歌を謡う蒼鴉なんてのは俺だって聞いたことねえよ」
「じゃあどうして鴉王には謡えたんだ? リュシオンが言っていた。これだけの眠りの呪歌を謡えるのは、王族である自分たちと同じか、それ以上の力がないととても無理だと」

 そこなんだよな……。
 仮にだ。あくまでもこれは仮にだが、あのセフェランが力を失っていなければ、あいつには可能だろう。つまりはそれぐらいの魔力がなけりゃできねえことなんだ。
 確かにネサラの魔力は高い。だがそれはせいぜい鴉にしてはという程度で、高位の神官や魔道士には及ばない程度のものだ。
 もしもあいつが呪歌を謡えることを隠していたとしても、ここまでの力は出せないはずなんだよ。第一、あいつに「呪歌謡い(ガルドラー)」としての力があるなら、リュシオンやリアーネはともかく、ロライゼ様やラフィエルがわからないはずがない。
 それでもだ。あれは間違いなく、鷺の呪歌だった。神聖なはずの鷺の呪歌が、ネサラの声で聞くとあれほど官能的なものになるとは思いもしなかったがな。
 今思い出してもぞくりとくるぜ。

「とにかく、もう少し待ってみるか。鴉王が帰ってこないことにはなにもわからん」
「ああ」
「あんたのことだ。わかってるとは思うが、もし帰ってこなくても、出立の予定は変えられん」
「当たり前だ」

 ネサラのことはあくまでも俺の私情だ。その私情でいい加減な真似はできねえ。
 ましてあいつが出した案でもう事態が動き始めてるんだからな。ネサラがいる、いないに関わらず、俺がその責任を負わなきゃならねえ。
 そう思って言うと、アイクも「それならいい」と頷いて立ち上がった。

「できれば夕食には顔を出してくれ。セネリオの方も準備が整うはずだ」
「わかった」
「行くぞ、ライ」
「あ、あぁ、うん。……あの、それじゃオレもこれで失礼します。もし鴉王のことでなにかわかったら、必ずお知らせしますから」

 アイクは振り向かずに、空いた皿を抱えたライは何度か振り返りながら部屋を出て行く。
 アイクに比べりゃずいぶん年上なんだが、それでもライだって俺から見りゃまだまだガキの内だ。ほほえましい気分で二人を見送ってから、俺は懐に入れたままにしてあったあの薬の小瓶を取り出して眺めた。
 獣牙族用と、鷹用、鴉用か……。恐ろしいほどの効果だったぜ。ニンゲンどもはこんなものをラグズ奴隷に使ってたんだな。
 あいつの様子がおかしくなったのは、あの薬師の村でこの薬を見つけたからか。
 クソッ、なんで言わなかったんだ!?
 俺はそんなに頼りねえのか? 俺のことが、信じられねえのか!?
 ここにはいねえネサラの肩を掴んで、そう怒鳴りてえぐらいだ。
 ………言えるもんなら、言ってるよな。あの時、確かにそんなことを言っていた記憶が残ってる。
 あいつのことだ。どうせ一人で解決しようと考えたんだろう。
 もう自分一人で抱え込まなくていい。俺に、いや違うな。俺たちに半分寄越せばいい。いっしょに悩んだり、考えればいいんだよ。
 どうすればあいつがそのことを理解するのか、納得するのか、俺はずっと考えていた。
 考えながら、逐一言ってはいたんだが、しょせん口先だけだと思ったんだろうな。俺の言葉があいつの心に届かなかったから、こんなことになったんだろう。
 気持ちを伝えるってのは難しい。改めてそれを思い知った。
 だが、今回の騒動とは別にこのことはきっちりとカタをつけなきゃならねえ。この薬があの薬師の村にあるってことは、この薬の作り方が俺たちが考える以上にベオクに知られてるってことだからな。
 あの村から一番近い村の情報を訊いたが、そこも壊滅しているという話だった。今のデインの気候と移動までの道程を考えると、あの村から逃げた連中の生存はかなり絶望的だ。だが、デインの薬師は一人じゃねえ。
 そもそも、ベオクの街や村では魔道士や神官が薬師を兼ねていることが多い。デインだけじゃねえだろう。伝わっちまった薬の作り方を完全に消すことは難しいだろうが、この先いつかまたベオクと争うことになった場合、もし飲み水にでも混入されたら大変な事態になる。
 今はまだベオクと仲良くやれそうだと思ってる奴らも多いし、俺自身、信じるに値するベオクが何人もいることはわかっているが、それでもほかの連中まで信じることはできねえよ。これはベオクも同じだろうが。
 だから、この薬の全てはなんとしても闇に葬らなきゃならねえ。
 改めてそう決意して俺は小さな薬瓶をもう一度懐にしまいなおした。
 だが、その時にふと妙な胸騒ぎを感じて俺はとっさに部屋から出たんだ。……なんだ? 廊下じゃねえのか?
 しばらく考えて、上の階の奥にあるペレアスの執務室へ急ぐ。もちろん窓からだ。
 せっかく翼があるのに、急いでる時にわざわざ階段なんざ使えるかよ。

「おい」
「ど、どうしたのですか?」
「誰か来なかったか?」

 テラスに下りて声を掛けると、執務机について熱心に書類の束に目を通していたペレアスが飛び上がって振り返る。
 やっぱり質素な部屋だな。無駄に華美じゃねえ。こういうところは俺やスクリミルと気が合いそうだ。

「いえ、どなたもお見えではありませんが。どうかなさいましたかな?」

 素早く辺りを見回して答えたのはタウロニオだ。
 ここじゃなかったのか? ……妙だな。

「ペレアスさま…!」
「ミカヤ、待てよ!」

 首をかしげながら執務室に入ると、遅れてミカヤとサザも扉を開けて飛び込んできた。

「ミカヤまで……一体なんの騒ぎだ?」

 さすがに不安になったんだろう。ペレアスも書類を脇に寄せて立ち上がる。

「あの…わかりません。ただ、ふとペレアスさまになにかあったのではないかと思ったものですから」
「え? まさかユンヌの声が?」
「いいえ。ユンヌはもういません。そうではなくて……上手く言えませんが、なにかの気配があったような気がして……」
「ミカヤ! だったらこんなとこにいたら余計危ないじゃないかっ」

 額に手を当てて悩むような仕草で首を振って呟いたミカヤにサザが膨れっ面をするが、それにも取り合わずにミカヤはテラスに出た。

「タウロニオ将軍、一応城の警備を見てくれないか? まさかまた皆が眠り込んでいるということはないと思うけど……」
「はッ。鳥翼王、失礼いたします」
「気にすんな。お守りはしてやる」

 緊張したペレアスの命令に姿勢を正すと、俺の返事に僅かに頬を緩めてタウロニオは執務室を出た。
 しかし、おかしいな。辺りを見回しても特に変わったことはねえ。空から雪がちらほら降り始めたくらいだ。
 それなのに、一体なんだって巫女も俺もこの部屋に来たんだ?
 仮にも王の執務室だからな。不安そうなサザがナイフに伸びた手を離してきょろきょろとする背中を叩いて励ましてやろうと思った時だった。

「鳥翼王!?」
「きゃ…!」

 ほとんど無意識に巫女を片腕でさらって執務室に放り込むのと、黒尽くめの男が突然テラスに降り立つのとはほぼ同時だった。
 まるでなにもないところから煙のように現れやがったんだ。

「あ、あんた、フォルカ!?」

 遅れてミカヤの腕を引いて背中に隠したサザが叫ぶ。
 ……フォルカ? 確かクリミアの道化文官の配下で、「火消し」だとかの異名で呼ばれる男か?

「デイン王…邪魔をする」
「邪魔もなにも、いったいどこから……」
「鳥翼王」

 日の当たる世界の住人じゃねえってのは立ってるだけでわかるな。呆然と首を振るペレアスの問い掛けにもなってねえ声を無視すると、フォルカは口元を覆った布を下ろしながら赤い目で俺を見た。

「なんだ?」
「あんたの配下が傷を負った。……もうすぐ一報を知らせに誰かが来るだろう」
「誰だ!?」

 鼓動が跳ねた。
 俺の後ろで三人が息を飲む気配があったが、そんなことはどうでもいい!

「おい、誰なんだ!?」

 こっちに向かってるのがわかってるのはヤナフとウルキ、それからアイクが呼んだ大食らいの女の大賢者ぐらいか。運送関係の仕事をする鷹も大勢いる。
 ほかに心当たりといえばネサラだが、この男がネサラのことを俺の配下呼ばわりするか?

「答えろ!」

 それ以上はなにも言わねえフォルカに苛立って胸倉を掴むと、その俺の手をゆっくりと外しながらフォルカが口元の布を戻して答える。

「王であるあんたが迎える準備をしてやれ。……せめて息のあるうちに」
「!」
「あ…待ってください! 僕も…!!」

 それ以上問い詰める時間も惜しい。フォルカの横をすり抜けるように羽ばたくと、俺は勢い良くテラスから飛び立った。

「方角は!?」

 怒鳴りつけた先で、フォルカの指がさした方向を睨む。
 そのまま化身して行くつもりだったが、ほとんど無意識に俺は中庭で怪我をしたらしい兵に回復の杖を使っていたキルロイを見つけてさらった。

「わあッ、な、なんですか!?」
「仲間が重い傷を負ったらしい。すまん。いっしょに来てくれ!」
「! わ、わかりました!」

 驚いていたキルロイが固い表情になって頷く。
 こいつの身体が弱いことは知っていたが、今の俺には加減して抱えてやれる気持ちの余裕もなかった。
 城壁の上から騒ぎを聞きつけたらしいリュシオンも来る。

「ティバーン!」
「向こうか!?」
「はい! ジルにも向かってもらいました。ティバーン、私もどうかいっしょに!」
「俺はキルロイを連れて行く。おまえを待ってやる余裕はねえぞ」
「あなたの気配を追うぐらい、わけもない! どうぞ気にせず飛んでください!」

 言うが早いか、化身して背中にキルロイを放り投げるように乗せた俺に倣ってリュシオンも化身する。
 それから俺は一気に飛んだ。言葉通りだ。リュシオンを待つこともしねえ。背中に必死にしがみつくキルロイのことを半ば忘れて、リュシオンが指した方向に向かって飛ぶ。

「ティバーン様、あれを!」

 ネヴァサを出てほどなく、こっちに近づく鷹らしい影が見えてキルロイが叫んだ。両脇から誰かを支えてるらしい。
 まさかあれは…ウルキか!?

「ウルキ!」

 近づくと、思った通り、ウルキだった。
 ウルキを支える両脇の鷹も軽くはねえ傷を負っていたが、ウルキの方が重傷だ。額から流れた血が片方の目を潰すように流れて滴り、いたるところに引き裂かれたような痕がある。
 鳥翼の民同士が戦った傷跡なのは一目でわかった。

「ウルキさん…! 今、治療しますから!」
「いらん…私は後でいい……。王……」

 ウルキは断ったが、キルロイは即座に呪文を唱え始めた。
 怪我を負ったってのはウルキか。だが、思ったよりも重くなくて良かった。
 だが、そう言う前にウルキを支える二人の鷹のツラを見て、俺は怒鳴りつけてえ衝動をかろうじて堪えた。

「てめえら……」

 こいつらがリゾーに加担しておきながら旗色が悪いと知るや、ケツまくって逃げやがったあの鷹の戦士だったからだ。

「王…制裁はどうぞ後で」
「一体、なにがあった?」

 返事がねえ。キルロイの使う杖から回復の魔力がウルキに伝わり、少しだが呼吸が楽になったようだが、それだけだ。
 ……なんだ? 迷ってるのか?
 嫌な予感がする。

「ヤナフはどうした?」

 最初から俺に視線を合わせねえ二人が明らかに動揺して小さくなり、どくり、と俺の鼓動が乱れる。

「どうぞ……いっしょに。今、ハールが……」
「どこだ? 怪我を負ってるのはおまえだけじゃねえのか!?」
「ヤナフは…後方です。これ以上…動かすのが難しく……」

 はるか後方を指したウルキの指が震えている。傷のせいじゃねえ。見た目はこうでも気の優しいやつだが、それでも俺の側近を勤めるほどの戦士だ。
 そのウルキの指が震えていることが指す現実に、俺はでかいハンマーで頭を叩き割られたような衝撃を覚えた。

「お…おれたちの、せいです……」
「王、どうかお早く…!」

 意を決したように顔を上げた二人の目に、涙が浮かんでいた。それから、化身を解いた俺の肩に必死にしがみついていたキルロイが腕を伸ばして、俺は慌ててそのキルロイを抱えなおした。

「ウルキさん、僕が行きますから。きっと大丈夫です」
「キルロイ……頼む。ティバーン……」
「おまえの手当ては、後だ。遅れても良いから、来い!」

 覚悟を決めた俺の言葉の意味がわかったんだろう。一瞬目を見開いたウルキは苦しそうに頷いた。
 ――こんな場面で、ウルキが俺を「王」と呼ばなかった。
 目を閉じて一度頭を振ると、俺はもうそれ以上なにも言わずに化身する。
 なんてこった…!
 先にその気配に気づいたのはキルロイだった。

「もう少し右に。…そのまままっすぐです」

 短く俺に指示を出すと、すぐに呪文の詠唱に入る。そうか。こいつの持っている杖の宝珠の一つはリブローだ。その魔力が届く範囲に気配を見つけたんだな。
 飛びながら必死に探した視界にハールの騎影を見つけるまでの時間は、恐らく俺の人生でもっとも長かったと言ってもいいほどの息苦しさだった。
 雪の白とむき出しの土がまばらに広がる荒野に、ハールとジルがいた。ヤナフがいるのはハールの騎竜の方だな。二人とも自分のマントで風と雪から庇っているらしい仕草が見える。
 俺が勢い良く近づく間に、キルロイの杖から放たれた光が吸い込まれるのが見えた。
 回復の杖の効果が現れたってことは、少なくともまだ死んじゃいねえ!
 
「ヤナフ…!」

 俺を見つけて手を上げたハールのそばに下りながら祈るような気持ちで化身を解くと、俺はキルロイを下ろしながらハールが抱えていたヤナフを見た。
 いつも団子にしてまとめている髪が降りて、血でべったりと頬に張り付いている。顔色は土気色だ。呼吸も速くて浅い。
 なにより、骨の太い部分からへし折れた左の翼と、背中を腰までざっくりと走った傷の深さと出血量に、俺は眩暈がした。
 なんてこった……。この…血の量は…!

「こいつを見つけたのはフォルカだ。応急手当もしたらしい。一度、特効薬を使ったってのは聞いた」
「キルロイ、お願いよ!」」
「わかっています。ジルさん、そのまま風から庇ってあげてください。出血も多いし、少しでも体温が奪われるのを防がなくては」

 常になく厳しい表情をしたキルロイが緊迫したジルの声に答え、杖をかざす。瞬く間にリカバーの宝玉に強い魔力の光が浮かんだ。
 回復の杖の中でも、リカバーは最高の力を持つものの一つだ。骨折ぐらいならそれこそすぐに完治するぐらいはな。
 だが、ここまでの傷となると……。

「ヤナフ…ヤナフ! 起きろッ!」
「ちょ、鳥翼王様!!」
「ジル」

 吹雪が近づいてきた。風の音がうるせえ。
 俺が来たってのにぐったりと目を閉じたままのヤナフの顔を見ていたら無性に腹が立って、思わず肩を掴んで怒鳴りつけた俺を止めようとしたジルの声も耳に入らねえ。もちろん、そのジルを遮ったハールの声も。
 ただキルロイが掲げた回復の杖の呪文を聞きながら、凍りついた地面を殴りつけ、俺は土気色になったヤナフの頬に恐々と触れた。

「なにがあったんだ!?」

 おまえほどの手練れがなんだってこんな…!!
 その言葉を飲み込んだのは、それまでぴくりともしなかったヤナフの瞼が震えたからだ。

「ヤナフ? ヤナフ!」
「ティ…バー……ンか……?」
「そうだ、俺だ!」

 瞼を開くだけでまるで全ての力を振り絞るように、ヤナフの声は小さかった。もう一度大きな回復の魔力はヤナフに吸い込まれたはずが、そのせいなのか腹の傷を覆った布の表面に新しい血が滲む。血の色が黒っぽいのは流れすぎた証拠だ。

「しゃべるな、あとから事情を聞く」
「き…け………。かたき…を……」
「敵を取れだ? ふざけんなッ!! てめえが受けた傷はてめえで返せ!!」
「ち…が……」

 いつもなにか面白いことはないかと猫のように輝いていた目の光が、今は泥にまみれたように鈍い。
 それでも簡単に「俺が必ず敵を取る」なんざ言っちまったら終わりのような気がして、俺は苦しそうな息を繋ぎながらなんとか俺に伝えようとするヤナフの言葉を遮ろうとした。

「ティバーン……!」
「ヤナフ、どうして…!?」

 そこに、ウルキとリュシオン、それからさっきの鷹の戦士の二人も来た。

「とにかく、キルロイに杖を使ってもらいながらヤナフを運ぶ。おい、おまえら! セネリオとペレアスにもこのことを伝えてこい! どいつかわからなかったら中庭でアイクを呼べ! グレイル傭兵団の誰かが出てくる!」
「は、はい!」
「了解!!」

 この鷹の戦士二人も軽くはねえ傷を負っていたが、ヤナフやウルキほどじゃねえ。だから命令すると、二人とも勢い良く羽ばたいてネヴァサに向かって飛んだ。

「ティ…バーン……」
「うるせえ! てめえの話は後だ!」

 少しでも体温を保たなきゃならねえ。そう思って俺はもぎ取るようにリュシオンの手から毛織のケープを奪って上からかけた。
 だが、ヤナフの手が、俺の手を掴む。
 その力のない手のあまりの冷たさに、一瞬俺は叫びだしたい衝動に駆られた。

「聞けよ……。かたきは…考えるな……」

 だが、それよりも衝撃を受けたのはこのヤナフの言葉だ。
 敵は考えるな? ……どういう意味だ!?

「ウルキ……」

 ウルキが俺から視線を逸らす。白かったリュシオンの顔が青くなり、ぎくしゃくとウルキの横顔を見た。

「てめえは…あの…渓谷…に……近づくな……」
「どういう意味だ? おい!」
「おれの…ことは…おれの……せきに………」
「ヤナフ!」

 そのまま意識を失ったヤナフが目を閉じて、俺は自分でもみっともねえほどうろたえて取りすがった。
 だが、もう呼んでも目を開ける様子はねえ。ヤナフに触れた手が血で染まり、その温かさに俺は乱れかけた息を必死で堪えてウルキを振り返った。

「言え…! なにがあった!?」

 だが、ウルキは言わねえ。しばらく首を振って、目を閉じて、ようやく開いた時には、キルロイの呪文の詠唱が一度終っていた。

「ハールさん、ここでできる治療はもうありません。なるべく急いで城に戻ってください。あとはみんなと協力して回復の杖を使います。幸い、ペレアス様やミカヤさん、セネリオ、ミストも優れた杖の使い手ですから」
「わかった。ジル、行くぞ」
「はい! キルロイは私の方に乗って! 鳥翼王様も急いでください!」

 温和なキルロイの表情は依然として厳しかった。……覚悟が必要な状況のままだってことだ。
 だからこそ俺はウルキの沈黙を赦さず、痩せた肩を掴んでもう一度言った。

「ウルキ、言え。誰がヤナフにあんな傷を負わせた?」
「ティバーン……」
「ティバーン、ウルキも怪我をしているんですよ!」
「口がきけるなら上等だ! 言え!!」

 ウルキの代わりのようにリュシオンが俺の腕に縋るが、俺は赦さなかった。当たり前だ。
 自分の責任だろうがなんだろうが、俺のダチを…俺の民を傷つけた相手を、俺が赦せるはずがねえ!

「あの二人が怪我を負ったのは…自業自得だ」
「あいつらが?」
「ヤナフは…千里眼で二人が危ないのを見つけて…助けに飛んだ。私は途中までイレースを連れていたから遅れた……」

 あいつらの自業自得? そのあいつらを助けようとしてヤナフがあそこまで傷を負った?
 そういや、ヤナフの傷は背中だった。普通、背中に傷を受けるってのは戦闘中に逃げようとしたか、誰かを庇って飛び込んだかだ。
 もちろん純粋に背中を取られたってのも可能性としてはあるが、ヤナフに限ってはそれはねえだろう。
 それだけじゃ意味がわからねえ。
 固い表情のウルキに続きを促すと、ウルキは一度息をついて先に羽ばたいた俺について羽ばたき、ようやく口を開く。

「泥の怪物と…騎士が…昼間だというのに蠢いていた。あの二人の救出よりも…それほど離れていない位置に村がある。だから私もヤナフもまずはそれを食い止めようと……」
「あいつらは光か炎の魔法か、聖水で祝福された銀の武器でしか斃せねえ! そのことは言ってあっただろうが!」
「それは…ただ、まず王に伝えて…それからデイン王が村人たちを逃がすまでの時間稼ぎが必要だからと……」

 確かに、一理ある。だが、それだけか?
 それだけでヤナフが瀕死の重傷を負う理由にはならねえだろ。厳しい表情で目を逸らそうとするウルキを睨むと、ウルキは諦めたように首を振った。

「怪物たちには…一定の秩序があった……。やつらの奥に…何者かがいる。それがわかった。あの二人が傷を負った原因だ」
「それを調べるつもりであいつらが傷を負ったってのか?」
「違う………」

 そこまで言って自分の目を覆って、ウルキは「今でも信じられない…」と呻く。
 それからもう一度俺を見て、ようやく言った。

「あいつらに守られていたんじゃない。あいつらを率いて…あの二人を庇ったヤナフと戦ったのは…なりそこないの鴉だ」
「………なりそこないの鴉に、ヤナフがあれだけの傷を負わされたってのか?」

 鴉のなりそこないがまだ生き残っていただと? ……いや、数を考えりゃ不思議じゃねえが、確かラグズはあいつらの魔力には操られねえんじゃなかったか?
 心臓が苦しい。激しくなり始めた雪が邪魔だ。
 頭の片隅だけがやけに冷静に話を聞いていた。

「その鴉は…蒼い燐光に包まれていた」

 リュシオンが顔を覆って呻く。
 ただ黙って話を聞く俺に、ウルキはかすれた声で言った。

「ティバーン……。そのなりそこないは…鴉王だ」

 どこかで予感はあった。だが、息も止めて黙り込んだ俺の肩を、長い髪を振り乱すように激しくかぶりを振ったリュシオンが掴む。
 非力で華奢な鷺の手とは思えねえほどの強い力で。

「私が! 兄上も…リアーネも…今は、父もいます! 私たちが再生の呪歌で必ずネサラを取り戻します! ティバーン!!」

 全身に金色の光を帯びるほど力を込めたリュシオンの叫びに、俺はぎこちなく頷くことしかできなかった。

「あいつらは…なにをやったんだ?」
「…………」
「ウルキ!」

 キルロイの回復の杖だけじゃ回復しきれなかったんだろう。ウルキの顔色がますます悪くなった。
 だが、これだけは訊かなくちゃならねえ。

「フェニキスのこと、ティバーンのことを…責めていた。ヤナフには見えたかも知れないが……。私の耳に…鴉王の声は聴こえなかった。だからどうしてそこにいるのかも……。ただ、あの二人と話し、なにかがきっかけで鴉王がなりそこないになった。私にわかるのはそれだけだ……」
「ウルキ! ティバーン、ウルキにも治療が必要です! 早く城へ……!」

 そこまで言って墜ちかけたウルキの腕を掴むと、俺は肩に担いで飛んだ。本当は化身して背中に乗せた方が早いんだが、今のウルキはいつ気を失うかわからねえ。
 この方が確実だからな。

「リュシオン、おまえも顔色が悪い。大丈夫か?」
「平気です。なにがあっても、私は行きますよ。今度こそ…今度こそ、ネサラを助けます。必ず…!」
「ああ、……そうだな」

 信じているから頷いたんじゃねえ。信じたいからだ。
 いつもいつも肝心な時にこれだ。本当にどうしようもねえヤツだぜ。
 ウルキを担いだ腕に力を込めて、目に雪が入りそうで首を振る。いよいよ吹雪になったが、方向は覚えてるから飛ぶことに不自由はねえ。
 瞼の裏に、ぐったりと気を失ったヤナフの顔が浮かんだ。
 皮肉げに笑う、けれど誰かに向ける眼差しの奥にはいつも暖かさが見え隠れしていたネサラの顔も。
 冗談じゃ…ねえぞ、ネサラ……!

   『今だって赦せないのにな……』

 そして最後に聞いた、切ないほどの声も思い出した。唇に残された温もりもだ。
 ―――逃がさねえ。
 なにがなんでもだ。
 ネサラ、覚悟しろよ…! 絶対に俺は、おまえを取り戻す!!



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